二次元も三次元も愛したい

女キャラの夢女子

ズレてるのが悪いんじゃない。コミュ障が問題だ。

もしかして、ズレてる?という言葉を最近よく聞く。日本では空気を読めないと上手くやっていけない。だから、周りの人から自分がどう見られているかをある程度気にする必要はある。それはわかる。

でも、「ズレてる」ってどういうことだろう。

周りの人の私に対するイメージと、私の自分に対するイメージが違う。自分が少数派である。規範から外れている。

もしかして、ズレてる?という言葉を聞いて最初に感じたことは、ズレてることが悪いことだというニュアンスだった。

「私、ズレてる?知らなかった。でも私はこのままでいいや」という感じより、

「私、ズレてる?知らなかった。私は異常すぎるかも。もうちょっと、自分がどう見られているかを気にしよう」という感じに聞こえた。

前者ならいいと思うが、私が気になるのは後者の方だ。

他人からの評価を気にし過ぎることは嫌いだ。行き過ぎると、「君、何がしたいの?」状態になるからである。

要はバランスが大事ということだが、私は、他人からの評価を気にし過ぎて何がしたいかわからない人が多いように思える。

「旅行どこ行きたい?」や、「何が食べたい?」に対して「あなたが決めて」と答える人が多いように思う(最初にそう言った方が都合がいい場面もあるが)。

逆に、数分会話してすぐに「この人、変わってるな」と感じる人もいる。

私は変わっている人が好きだが、その中でも嫌いな要素がある。

それは、コミュ障である。

ここでいうコミュ障のニュアンスは、人の話を聞かないというものだ。

変わっている人は、基本的に自分が好きだという印象がある。自分に興味があるから、他人に対する興味が薄れている気がする。

私自身、周りから変わっているとよく言われるし、自分が美しいとは思わないが、ブログを書く程度には自己顕示欲がある。

そんな私が気を付けていることは、「人の話を聞く」ということだ。

具体的に言うと、会話の時、相手の発言を踏まえて話す、ということである。

例えば、Aが自分、Bが会話の相手だとして

A:私はCが好き

B:私はDが好き

A:Cのここが好き

B:へー

A:私がCを好きになったきっかけは・・・

というのではなく、

A:私はCが好き

B:私はDが好き

A:Dのどこが好き?

B:とにかくDの歌を聞いてみて。話はそれから。

みたいな感じである。

会話のキャッチボールをする、というあれである。

当たり前のことかもしれないが、自分を語りたい人は、これが疎かになる傾向がある。

人は「自分が受け入れられた」という感覚に安心するという。

そのためか、最初の例のように自分の発言に対する反応がない時、私は不安を感じる。

要するに、人の話を聞き、会話のキャッチボールができれば上手くいく、という話。