二次元も三次元も愛したい

女キャラの夢女子

現実逃避という娯楽

私はなぜ百合を好きでいるのか、そして百合やBLが存在するのか。

これに対する考えのひとつを書きます。主に異性愛者視点です。

「同性を対象にした恋愛」をコンテンツとして考えると、「理想が壊れにくい」のではないかと思います。

人と人が深く付き合ってこそ愛憎が生まれる、と私は考えています。

深く付き合うというのは、特に家族とか恋人を指しています。友達の場合、親友だと言っても、会う頻度などは融通が効くと思うからです。

人と人が深く付き合う仲で避けては通れないのが、イメージの崩壊です。

初対面の段階では、相手の性格などの大部分は、短い接触時間や、見た目などで判断するしかありません。そこで自然と形成されるのがイメージです。

イメージは経験が少ないほど楽観的なものになると思います。しかし100%現実を見抜けるスーパーマンなど存在しないので、イメージと現実には解離が生まれます。

このイメージの崩壊こそが、一種の絶望ポイントだと思うんですよね。

だからこそ、人は人生経験を重ねていくうちに、少なくとも自分の手の届く範囲に完璧な人はいないんだ、と気づくようになります。そして、妄想の、ファンタジーの中だけでもいいから、楽しみたいと思ったりします。

そして、妄想の、ファンタジーの条件として必要なキーワードが、「非日常」「現実逃避」だと思います。

現実を忘れて楽しむためには、なるべく現実と繋がっていないことが重要です。

ここで同性愛コンテンツの話に戻りますが、自分が異性愛者であるとしたら、「現実で同性と恋愛関係になる」可能性は極めて低いと考えられます。

だからこそ、自分が異性と関係をもっていないという劣等感を忘れられるし、「異性にモテる」という土俵で、自分と比べて落ち込むこともありません。

だからこそ、落ち着いて、自分を忘れて、それこそ「壁」や「観葉植物」になったつもりで鑑賞できるのではないでしょうか。

そういう意味で、百合やBLといった「同性愛コンテンツ」は異性愛者のためのものだと、私は考えます。

ファンタジーで現実逃避なのだから、現実の同性愛者の方々から「現実と違う」という批判が出るのは、自然な結果だと思うのです。