私たちは、洗脳されたい
私たちは、洗脳されたいのかもしれません。
ここでは、私の人生の半分以上を占める、ポケモンを例にします。
洗脳されたいとは、宗教や神を信じたいというニュアンスです。現実は酷く厳しい面もあるけれど、どこかには天国のような場所が存在する、というような。
私も社会人になり、しんどいとか、1年後ちゃんと生きてるのかなとよく思うようになりました。そのくらい、生きることも、仕事をしていくことも大変です。
だからこそ、砂漠にあるオアシスのような時間がとても輝きます。
大人らしい枯れかけた心に潤いをくれるのは、幼い頃の記憶がきっかけだったりします。
私は小さい頃からポケモンのゲームをしていました。端から見ると、ただゲーム画面を見てボタンを押しているだけだったでしょう。
でも、本人にとっては違います。私はゲーム画面から得られる情報やアニメ、漫画などを頭の中で混ぜて、自分にとっての理想郷を作り上げていました。
ポケモン達と旅に出て、負けてお金を取られたり目の前が真っ暗になったり、ライバルにもう少しのところで負けたりしつつ、確かに成長を感じていました。
戦いが終われば、よくがんばったね、と毛繕いをしてあげたり、レポートを書いた(セーブ)あとは、みんなで楽しく野宿をしていたり、そんな妄想をたくさんしました。
これが思春期になって中途半端に知識がついてくると、ポケモンの世界で食べられている肉は何かとか、どのポケモンが生態系のピラミッドのどの階層にいるのか、人間よりも圧倒的に強い知能と力を持つポケモン達は、なぜ人間を生かしたままにしているのか、など、ひねくれた考察をしたりもしましたが。
今となっては、そういう細かい分析は現実をよりよくするために使えばいいのであって、夢は夢でいいんじゃないかと思います。なぜなら、幼い頃、ポケモンの世界でたくさん旅をしたという、どこかきらきらした経験のような妄想をしていた感覚は、今でも生きる糧になっているからです。
子供を対象とした娯楽は、一種の洗脳かもしれません。現実では物語みたいに世界が平和になることはないし、人と人が深く関わるほど愛と共に憎しみが生まれ、ハッピーエンドにはなりません。
でも、それはそれとして、洗脳の中で見れる夢があり、そのときに感じた楽しい感覚を覚えていることは、大切なことだと思うのです。